市民ジャーナリズム

知ろう

市民ジャーナリズムに求められる理想

一市民として求めるジャーナリズムとは何か

市民ジャーナリズムはなろうと思ってなるのではなく、すでに情報ツールとして入手した携帯やスマホなどをその手の中に持った時点で、不可抗力といった具合に誰もがアマチュアジャーナリストとしての権利を取得していると分析した方がいいだろう。そこに何か意図を求めるのではなく、また営利を欲しているわけでは無い人もいる。中には故意で情報を集めている人もいるかもしれないが、大半が自分のしていることがジャーナリストのように、責任が伴うことだという自覚を持っている人は非常に少ないだろう。困ったのが、特定秘密保護法案云々以前の問題で、他人のプライバシーに関する情報をSNSで公開したとしよう、するとその話題は投稿者本人が予想を逸脱した勢いで拡散していき、いつの間にか手のつけようがなくなってしまったという状況に苛まれている可能性があるのだ。

筆者が仕事上に関する情報を漏洩して問題となったと話したが、その大半が芸能人としてメディアで活動している友人の交友関係をばらしてしまったということである。当然個人情報に抵触してしまい、正式に告訴されるという笑えない展開になったという。そんなつもりはなかった、まさかあれだけで訴えられるとは夢にも思わなかったと本人の語るところだが、そんな理由ですべてをなかったことに出来るほど甘い世の中ではなかったとだけ、話しておこう。

つまり、市民ジャーナリズムと言ってもただ蔓延している情報を漠然と集めるだけでは意味がないということ、その情報が背景事情もしっかりして、真実であるとする判断材料が出来ていなければ本来なら公開してはいけないのが、プロだろうとアマだろうと共通している。

情報を扱えるようになった分、情報の扱いに気をつけなくてはならない

情報に翻弄されてはならないと言われているが、人間が情報を翻弄することは無い。むしろ情報によっては一人の人間の価値観そのものを変異させることが出来る爆弾を備えているときもある。そんな時こそ1つの情報に縛られるのではなく、直ぐにリソースを調べて事実確認をすることで誤った認識を持たないようにするための努力行為が出来るようにならなければいけない。特に市民ジャーナリズムの場合、その場で起きた事件などの状況を詳しく実況するなりして注目を集めている人もいるかもしれないが、発信する情報に何かしら意図を加えたような情報を織り交ぜることだけは控えなくてはならない。事件や災害などの際には役立つだろうが、そこでも大げさな表現を使用しているなどの悪質極まりない悪戯を仕掛けていたら、その分だけ責任を追及されることとなる。

情報発信ツールとして利用されているtwitterなどが良い例だろう、そして気軽にどんな情報でも発信できるとして行き過ぎたことをしている人も一時期出るなど別の意味で問題となったこともある。情報があればそれに基づいて行動する分には構わないが、まずはその情報が本当に正しいものなのかどうか背景を確認することを怠ってはならない。扱えるようになったら、今度は自分が情報を制御できるだけの準備と心得、そして扱い方を寸分たりとも間違えないようにしなければならない。


潰しあうのではなく、助けあう

ジャーナリストとして活動して行く人の中にはプロとして、またはアマチュアとして一貫した姿勢を貫こうとする人もいるだろう。当たり前のことだが仕事面では断然プロの方が有利に働くのは目に見えているが、アマチュアにはアマチュアらしい小回りの良さを生かして好きな情報を発信するようにする、もちろん間違った情報がないことを前提にだ。しかしだからといってプロだから、アマだからという一言で差別的な偏見を持つことは好まれないと語る人もいる。ジャーナリストとして互いを尊敬しつつも、どちらの情報源も有利になる可能性になることもあるからだ。

持ちつ持たれつつといった関係なのかもしれないが、知られていない情報を世に発信する際にはプロだろうが、アマチュアだろうが関係ないというのが本当のところかもしれない。世界的にいまだ公開されていない情報であれば、それだけ価値のあることだと認められることもある。日本ではそういった習慣は無いが、海外では市民記者からの投稿による情報も信憑性に足るものだった場合には遠慮なく採用しているほどだ。先に話したうさぎ島だったり、災害の状況だったりなど情報のソース源に関してはすでにプロじゃなかろうと関係なく採用される世の中になっている。