市民ジャーナリズム

知ろう

SNSを用いた波及

ジャーナリズムを根底から覆した

専門職として情報を発信するジャーナリズムという考え方だったが、その前に情報収集という段階を踏まなければならない。情報がまとめられていなければ発信することも出来ず、曖昧な情報を安易に世の中に発進することを良しとしない、そういったジャーナリズムに携わる人間のプロとしての意識が介在している。これまで簡単に踏み込む事の出来なかったジャーナリズムが、昨今普及し続けている脅威によって存在意義そのものを揺るがすような事態にまで及んでいる。インターネットという便利なものが出来上がり、そこから来た技術革新によって更なる文明としての進化で誕生した『ソーシャル・ネットワーク・サービス』という存在だ。便利だからこそなのかもしれないが、そうして作り出された新たな情報配信サービスが登場したことで、ジャーナリストそのものが今後どのように活動していくべきなのかが考えられている。

そしてそこから見る昨今のジャーナリズムと、SNSという新しい情報サービスで自分たちが獲得することが出来る情報の質も大きく異なってくる。


即時発信可能

日本にも市民ジャーナリズムという考え方に基づいて活動していた記者は存在しているが、そういった彼らの中にはSNSを用いてニュースを伝えている人もいる。そのため現場にいながら即座に何が起きたのかを端的に伝えることも出来るということはもちろんだが、そもそも現場にいるという時点でジャーナリストとして見てもかなり強みとなる。情報集めは事件が発生してから、またその後に続く事件が発生するまでに至る経緯に関して調べることも出来る。

ジャーナリストとしては最高の点だと言えるが、その時に謝った情報を発信するような真似だけは避けなければならないが、この際そういう心配は無いだろう。ではそうした専門的、きちんとした企業に勤めており、新聞などのメディアに顔が通じるくらいのジャーナリストとそうした無作為に点在している市民ジャーナリスト達とでは、報道するという意味ではそこまで大きな違いは生まれてこない。だが本当の意味でのプロジャーナリストとあちこちに存在している市民ジャーナリストでは、勝負をしようものなら勝ち目がないとまで言われている。どうしてか、それは数の暴力という覆せない状況にあるからだ。

専門的に活動して知識と情報も備わっている一人のジャーナリストと、面識こそないがSNS上で知り合いとして交流している市民記者たちという構図では、どう考えても分が悪すぎるからだ。こういうところでも圧倒的な数という状況から逸脱する事は不可能となっている。プロ根性で全面戦争を仕掛けるのもアリかもしれないが、むしろそのような無謀な行動に出る前に、自分たちで出来ることをするところから始めるほうが堅実的だろう。

現代になって生まれたSNSという新しい情報を獲得することが出来るサービスをも利用すること、そこからさらに一歩先へと踏み込むことによってプロのジャーナリスト達もめまぐるしく変化する世間に適応する手段を用いていかなければならないようだ。

争点となる匿名性

ただそれでもプロのジャーナリストと市民記者では大きな隔たりが存在していることを忘れてはならない。何より前者と後者では与える影響力の大きさも、世間一般へと浸透する情報の早さも、どこぞの誰かも分からない人間から伝えられた情報よりも信じる価値があるのか一目瞭然だからだ。プロとして活動している人間は、時としてメディアに出演してニュースに関して解説といった仕事をしている人もいる、そうする事で自分の顔と名前を全国的に知名度を上げられるため、匿名性という遮られた壁の向こうで誰とも知らない人間から一方的に与えられる情報だけを信じるのとでは天と地ほどの差があるといえる。

しかしこうした匿名性によって情報が拡散されることによって危惧、もしくは対策を講じなければならない点が出てくるが、おそらく大半の人がすでに勘付いているだろうとは思う。それは匿名性によってもたらされる『情報の不正確さ』という点だ。この点に関してはインターネットが出始めるようになってから悩まされる、もしくは翻弄される人が出てくることだろう。インターネットに限ったことでは無いが、電子メールを利用した迷惑メールの類も同様だ。筆者の中では2011年に起きた東日本大震災の折、そのとき働いていた職場の方が友人から送られてきた放射線対策として卵を沢山食べた方が良いといった、そんな根も葉もないメールを受け取って懸命に拡散している姿を見たときは思わず警鐘を告げた。事態が事態だからだったと考えれば仕方ないとしても、そういうときこそ情報が正確であること、大前提として真偽も確かめていないようなあやふやな噂話を広げることを、プロのジャーナリストは決して行ってはいけない。当然だが、嘘か本当かも確かめず、情報のソース源だけで信じるといった浅はかな行動は、クライアントのコンプライアンスに関わる問題となる。

プロのジャーナリストはそうしたことがないように、日々訓練、もしくは常に学習したりして、自身が仕入れてきた情報が真実であるとするだけの自信を固辞しているものだ。ただ市民ジャーナリズムに関して言うなれば、その情報を完全に信用することが出来るといった背景を感じるかは疑問を提唱しなければならない。インターネットで掲示されたから間違いないと荒く息をつきながら説得してくる人もいるが、そうしたところに掲載されているだけで信じるに値するか否かと言われたらプロの視点では大半が否だ。

インターネットを介した情報配信サービスの登場によって、今までテレビで報道されることのなかった情報を仕入れることが出来るようになった事は良いこととしてみるべきところだが、同時にもたらされたものは、欺瞞に満ち溢れた情報システムの社会の構築という、今まさにインターネット上で行なわれている騒動となっている。

説明責任を有しているかどうか

市民ジャーナリズムという構築に関して異論をいいたいわけでは無いが、考えなくてはならないことが1つある。それは発信する情報が正確であるということをきちんと説明できるかどうかという点だ。実際考えてみると、この説明をしないまま曖昧なまま正しいと強固な姿勢を崩さない人がいるが、そういう場合大半は内容の真偽を疑って掛かったほうがいいだろう。言うなれば市民ジャーナリズムで語られている情報の中には、根も葉も存在しない、作られたフィクション、もしくは噂話程度でしかないにも関わらず真実だと、有無を言わせないようなことが実際にある。

それに対してプロのジャーナリストは自身が発信する情報に関して、キチンとした説明責任が求められる。当たり前だが、プロとして活動するに当たって、大半の人が実名を利用して仕事を行なっているため、どの道逃げ場など存在しないのだ。何処から情報を入手して、そしてそれを説明するだけの背景事情と下調べを入念に行っていることこそ、プロだからこその強みとなっている。そのためまずプロとして活動するに当たっては人脈作りからと、そういう人はある意味行動として正解だったりする。

SNSなどを利用した情報を発信する市民ジャーナリズムが抱えている匿名性を悪用した不確かな情報の発信、そして情報についての説明責任という2点について今後どうするかを考えなくてはならないものだ。